泉花凜の文字語り

Web小説家の文字語り置き場

読みたいものと書くもののズレに悩む葛藤

毎日ぽむぽむ2024【自分の読みたいものと書かざるを得ないものがまるで噛み合ってない件について】

 

読んで字のごとく、自分の読みたいと思うものと創作者として書かざるを得ないものがまるで噛み合っていない。

 

私の読みたいものは、娯楽性を追求したエンタメ作品だ。十代の頃は漫画やライトノベル、二十代の時はキャラクター文芸などを中心に、とにかく気軽にふれるコンテンツが好きだった。

 

それは今でも変わっていない。基本的に読むものは小説だけど、エンタメ性の強い楽しいお話で、ハッピーエンドだ。漫画の読む頻度は落ちたけど、今でも時々読んでおり、某少年漫画のサイトを読みあさったり、大人向けの少女漫画(二十代ほどの女性が主役の少女漫画)をたまに読んだりと、読者としてはまあまあ快適な消費者生活を送っている。

 

問題は、書く方だ。

 

私は物書きを目指している人間だが、ずっと自分の読みたいもの=エンタメ作品をがんばって書いていて、それが今、まったくもって楽しくない。書く作業がめちゃくちゃ苦しい。書くのは苦しみだと多くの先輩作家さんがおっしゃるけれど、本当にその通りで、それがここ数年、私の中で顕著になりつつある。

 

「読みたいものが、書きたいものである」といった創作本を教訓にし、書き続けてきたけれど、どうやらこれが私には当てはまらないのではないかと疑い始めている。

 

私にとって、物書きとは「書きたいもの」というよりかは「書かざるを得ないもの」である。何かを吐き出さなければならない。この胸の内にとぐろを巻いているような激烈な感情を、どうにかして物語に昇華し、誰かに見てもらわなければならない。「見てもらえたらいいなあ」ではなく、「どうにかして見せてやる」あるいは「どうか見てくれ。誰か見てくれ」と切羽詰まった感情に近いものがあふれているのだ。

 

エンタメ作品とは、作者のためではなく、読者のために存在するものであり、いかに読者が気持ちよく本を最後まで読み切ってくれるかが鍵である。この時点で、私にエンタメ作品を書く素質はないように思われる。

 

では、エンタメ以外の、いわゆる純文学というやつだろうか?

 

ここが難しいところで、純文学とは作家の独自性のために存在するものであるが、今日の社会で生きる私たちの問題提起というか、そういった社会的思想を存分にはらんだ作品であることが求められるため、私の作品にそのような芸術性があるのか?と問われれば、うなずくことができない。私の作品はそんな大層なものじゃないですよと、謙遜どころか卑下してしまいかねないほど、私の作り出す作品群は何かにつけて微妙である。

 

エンタメか、純文学か。

 

永遠の課題に、いつも頭を悩まされている。

 

ここまで書いて、今まで一度も一般文芸の賞に応募したことがないと思い当たる。

 

しかし、一般文芸のハードルの高さは誰もが思うとおりで、それを気にするあまり「傑作を書かなくちゃ!名作にしなくちゃ!」と焦りだけが募って、一日中パソコンにかじりついて一文字も書けないという暗中模索を繰り返している。

 

読みたいものと書くものは、私の場合一致しないと気づけただけでも収穫の日だったろうか?

 

そう思うしかない。道は長く、私はもう若くないが、でもまだ三十代なので、ようやく大人の入り口から前半ルートにこぎ着けた程度の年齢である身としては、この精神年齢がいよいよ変わりそうなことを痛感している。子どもの視点・若者の視点で世界を見ていた目が、フィールドを変え始めているということだろう。

 

サナギのまま大人になっても、それはそれで味のある人生だし。

 

今日はそんな考えをずっとしていた、雪まみれの天気の一日だった。

 

 

令和六年二月五日月曜日

 

 

 

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