泉花凜の文字語り

Web小説家の文字語り置き場

名前のつけられないこの感情を、したためたいんだ。

わたしがブログを書く理由

2023年9月7日木曜日、衝動的に文字をつづる。

 

足りないから。まだまだ全然足りないから。何が足りないのかというと、書くことが。書きたいことが、自分の中からなくならない。生きれば生きるほど、伝えたいこと、訴えたいことがあふれ出て、でも垂れ流しのように人に見せるわけにもいかなくて、こうして文章にしたためている。

 

何を書きたいのかと問われると、実はそれを言葉に表すのがとても難しく、簡単には言えないことで、元も子もないじゃないかと言われそうだけれど、でも、こうして真っ白なページに向かっている時、手指が本能に突き動かされてガシガシとキーボードを叩いているから、何かを伝えたいのだということだけがわかっている。

 

台風が迫っているから、気象病に当てられて、気持ちが少し高ぶっているのかもしれない。現時点での最新の台風は、一日で東京を過ぎるようだ。土曜日になれば、この気持ちも落ち着くのだろうか。

 

文章をつづるのは子どもの頃から好きで、もっと言うなら、文章に限らず、物語をつづることが好きだった。小学生の頃はへたくそな落書きを自由帳に書き起こし、文字を入れて、オリジナルの絵本を作っていた。そのノートはどこかへ行ってしまったけれど、今読み返せば顔から火が出そうなほど恥ずかしくて、見せられたものじゃないと思うから、たぶん、見つからないままでいい。

 

『物語』というものは、不思議だ。『虚構』であって、『フィクション』であって、『嘘』であるのに、そこに流れている世界は間違いなく真実なのである。人生という果てのない、けれどいつかはゴールする旅路を、何の支えもなしに歩き続けることは、人間にはできない。私にとって、その支えとなる杖が『物語』であった。

 

『物語』は表現の手段であるし、どこかの誰かの救いでもあるし、またどこかの誰かにとっては、取るに足らない塵芥《ちりあくた》同然の存在でしかないけれど、そこには必ず人の数だけの『正解』があって、美しいものが流れていて、それを糧に生きる人たちがたくさんいるのだ。『物語』は人類の宝である。

 

私たちは、子どもの頃から学校教育で数多ある『物語』にふれる。国語の授業だ。

 

国語に正解はない。もちろん、模範解答はあるが、『物語』を読む授業の時、それは大した問題ではない。何より重要なのは、子どもの私たちが『物語にふれている』ことである。

 

正解がないということは、すべての『物語』が正解である、ということだ。

 

人の数だけ正解があり、そこには世界があり、その人だけの確固としたパーソナリティーがある。

 

それが乱立しているこの状況こそが、真に美しいのではないか。私は常々そう思っている。

 

『物語』が好きだ。という主張を、私は死ぬまで言い続けたいのかもしれない。

 

ブログを選んだのは、SNSでは伝えきれない、そういった文章を書けるから。

そして、はてなブログを選んだのは、こんな私の文章を読んで、スターをくれる人たちがいるから。

 

反応をくれて、ありがとう。本当に感謝しています。

 

エッセイなのか、日記なのか、詩文なのか、名前をつけられない、この取り留めもない文章を、私はブログと呼びます。

 

 

わたしがブログを書く理由

 

 

 

 

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